相模原 障害者殺傷事件 障害者を持つ親の想い


私の息子(6才)には重度の知的障害があります。未だに一言も喋れず、パパ、ママとすら呼ばれたことがありません。誰構わず抱っこを求め、私や妻を特別な存在と思っていないかもしれません。成人しても、社会で働く姿を現時点では全く想像できません。

容疑者の価値観では、息子のような障害者は社会的不利益な存在であり、居なくなった方が、親族は苦しみから開放されて良い、と主張しています。

確かに障害者など不自由な方のために多大な税金が使われます。また、障害者が年齢を重ねるにつれ、介護の負担が増え、不幸にも障害者と心中する方もいます。
だからと言って、私は、容疑者の価値感に強い反論を抱かずにいられません。残念なことに容疑者に 賛同するという意見も少なくなくショックを受けています。少しでも障害者に対する考えが変わるきっかけになればと思い、以下に私の想いを綴りたいと思います。


《親の想いとして》

親としては健康に産んであげられなかった自責の念は強く、障害を持って産まれた子供に対して申し訳ないと考えている方は多いと思います。
死んでくれた方が介護の負担が減って本当に良かったと思う親はいるのでしょうか?
私は、息子からは既に一生分の親孝行を貰っていると思っています。
以前、とあるデパートのベビールームで、3歳くらいの娘さんとご両親が隣に座っていたのですが、
「(自分の子を)こんなに愛おしく思える生活を送れていることだけで、娘から既に一生分の親孝行をもらってるね。あまり孝行できず親父は逝ってしまったけど、子供の頃に少しでも孝行できてたのかと思うと、少し気が楽になるよ。
と横耳で聞き、目からウロコが出る思いをしました。
私も息子が産まれてくれたことに感動し、重い障害こそあれ愛おしく感じながら生活していたことに改めて気づかされました。(嫌がられても今でも毎日50回くらいはチューしてます笑)

親としては健康に産んであげられなかった自責の念は強く、申し訳ないと考えている方は多いと思います。死んでくれた方が介護の負担が減って本当に良かったと思う親はいるのでしょうか?
私は、息子からは既に一生分の親孝行を貰っていると思っています。以前、とあるデパートのベビールームで、3歳くらいの娘さんとご両親が隣に座っていたのですが、
「(自分の子を)こんなに愛おしく思える生活を送れていることだけで、娘から既に一生分の親孝行をもらってるね。あまり孝行できず親父は逝ってしまったけど、子供の頃に少しでも孝行できてたのかと思うと、少し気が楽になるよ。」
と横耳で聞き、目からウロコが出る思いをしました。私も息子が産まれた事に感動し、障害こそあれ愛おしく感じ生活していたことに改めて気づかされました。(嫌がられても今でも毎日50回くらいはチューしてます笑)

今後、成長するにつれ、徐々に介護は大変になることでしょう。しかし、これまで息子が与えてくれた出産の感動、愛おしい生活は忘れません。そしてこれからも与えてくれるものを見逃さず噛みしめていれば、今後、負担が増えても乗り切っていける勇気を貰えました。デパートでのどなたか存じませんが感謝致します。

このように愛おしく思える息子/娘が、どこの誰かもわからない他人の価値観のもと殺されたら親族は良かったと、素直に思うでしょうか?
健康に産んであげられなかった自責の念からも、後悔だけが残るのではないでしょうか?

少し例えが変わりますが、親友、兄弟、親、祖父母が急に障害者となったら殺すことに納得できますでしょうか?これまで苦楽を共にした人を障害者になったからといって殺すことに納得する人は普通いないと思います。障害を持つ子の親の想いも同じです。


《社会的観点として》

医療、福祉、公共施設など障害者への配慮に多大な税金が投入されています。
だからと言って労働力にならない障害者は殺してしまう、殺さないまでも人並みの人権を与えないことは本当に社会的にプラスなのでしょうか?
不利益な障害者からは人権を剥奪する考えを履行とするとして、誰がどの程度の障害を該当すると判断するのでしょうか?
保護者は補助を受けたく障害申請しても、重度(該当)と判定されれば逆に人権を剥奪されます。そのような障害者申請を保護者は行えるのでしょうか?政府がゲシュタポのような機関を作り目を見張らせ、取り締まるのでしょうか?
そのような社会は健常者にとっても良い社会と思えません。

更には、モラルの崩壊により障害者と健常者であれ立場の弱い者との区別が曖昧になり、結果、差別化社会を推進していくことになると考えます。(学校、会社、等々あらゆる場面で確実にいじめ、差別が増えると断定できます。)

そのような社会的では、十分豊かでなければ、安心して子供を産めません。生まれるまで、または、生まれた後もある程度の年齢にならないと障害者か健常者か分からない場合も多いのです。私の息子もそうです。
高齢出産化が進む現代において、高齢出産で障害リスクが高まることを考えれば、出生率低下に繋がることは安易に予想できます。
障害者の社会的人権を保つためには保護者のサポートが不可欠です。そして悲しい結果とならないよう保護者の負荷を軽減するための社会的サポート(医療、福祉、公共施設)はやはり必要です。

ここまで障害者、保護者ばかりを擁護するような意見を述べてきましたが、保護者は一生十字架を背をって生きていくことを覚悟すべきだと思います。障害者の介護は確かに重しになります。しかし、先に述べたように自分の子供は障害者であれ尊いものであり、その重しに耐え、守るために普通の人より頑張る気概を強く持つことが必要と思います。保護者の方は、サポートしてくれる社会、また、周囲の協力者への感謝の気持ちを忘れず、無理し過ぎないよう精一杯働くことが必要なのではないでしょうか。
私自身も腐っていた時期がありました。しかし、今では人生を考え直すきっかけを息子に、サポート頂いた方々に頂けたと思います。そして、社会に恩返しするために、息子が生まれる前以上に仕事に励めている実感があります。障害を持つ子のお陰で逆に力をもらい、親が成長するといこうこともあるのです。


《最後に》

障害者を持つ親は社会に恩返しをする気持ちで仕事なり、別の形で社会に貢献できていれば、胸を張って、社会的サポートを活用すべきと思います。そして、我が子と笑って過ごせる自分なりの生活、価値観を見出しては如何でしょうか?
聖人のような意見をベラベラと述べてきましたが、私自身も障害者を抱え、絶望を感じ、日々自殺を考える毎日がありました。それを思い留まらせてくれたのが妻、親姉兄弟、親戚、障害センター、保健士、病院の方々であり、また、暖かく見守ってくれた勤め会社でした。これにより徐々に、立ち直るきっかけをもらったことに深く感謝致しています。
現状を前向きに捉え、自分なりの幸せを見出し、精一杯生きていれば、障害者を抱えていても、自分が死ぬ間際に人生良かったと、笑えると信じています。


《ご参考に》

ウルフルズさんの「笑えれば」の歌声、歌詞(特に後半のパート)がなんとなく今の私の想いにマッチし、癒された気持ちになりました。
同じく障害者を持つ親族の方、また、私の想いに共感いただけた方は是非新たな想いで聞いてみては如何でしょうか。